景道三十年の我が道 一社)日本盆栽作家協会理事・景道二世家元 須藤 雨伯 左)筆者 右)景道片山流初代家元 片山一雨 景道は盆栽道であり、盆栽の精神や美学を主に盆栽の心を養育精進するものであります。 そもそも日本精神文化の源流は、道教であり、神仙を中心に聖なる「にわ」で身心一体となって「神あそび」・「うたげ」に参入するにあります。 すなわち「つどい」と「うたげ」、「座」と「寄り合い」のなかで、生活のすべてをそのまま芸術の極地に高める。そこに「景道」が生まれる。 日本の精神文化である景道は、一期一会の演劇的空間を「一座建立」することにあり、心ある人と「しつらえ」と「取り合わせ」の空間が必要であり極意となります。 つまり、神仙・にわ、そして心ある人々の集いによって仙境の「座」が生まれるのであります。 盆栽・盆石を主に、神仙・山水の景情を床に「しつらい」飾る。 ここに景道のならいがあり、盆栽道を極める道であります。 盆栽道と景道の飾りとは 景道は、盆栽・水石の美の追求と盆栽の心を極める道であります。盆栽は天人合一を精神とし、人の作意を自然の力を得て超越し、天地自然の気を養い人智を超え、自然の壮厳を美とするものです。 そして、盆栽道は人の道であり、「養樹得養人法」を、常道とします。 盆栽飾りの晴れの舞台は、床の間である。「床の間」を、自然を畏れ敬い祀る空間とするために置かれる盆栽は神聖でなくてはならない。けれども、盆栽は通常は屋外で丹精するものだから、最初から室内の「床の間」に飾るために作られた美術工芸品と比べれば、清潔感に乏しいと感じられるのもやむを得ない。 そこで、一切の不浄感を除去するために拭き清め、土の気配をなくすために苔を張る。 こうした日頃からの手入れによって、不浄感をなくす。 そして、美術品や工芸品を見立て取り合わせ、山水世界を具現化する。 盆栽を主役にし限られた室内「床の間」などに山水景情を創造する。これが盆栽の飾りです。盆栽を飾ることは、己自身がそこに座ることと同様に己の内面をすべて表面化させることであり、その為に、作法の習得が大切となるのであります。 盆栽は、四季の変化を充分かもし出すものだから、初心者でも盆栽の風情は理解できると思う。 そして、栗田勇氏が著書「盆栽発見 その日その日」(新潮社、1997年)の中で次のように述べている。 「私は数年間、突然盆栽の生命に触れた。盆栽は生々として深い世界を私の暮らしの中に開いてくれた。日々盆栽と暮らすことは、自分の人生と向かいあってあらためて確かめながらすごすのに似ている。」 「原始の森の植物の心になって、私は天と地の陽気をはかりながら呼吸する。悠々の時の流れのなかの一瞬の命を味わう。いや一刻のいまから悠久の時空を超えて無限の空を想う。そんな、その日その日を(略)」 「 『自然』という言葉から脱出して、芭蕉のいう 『造化』というものにたどりついた」 盆栽は日本の伝統的・美的な生活文化の源泉であり、その盆栽の魅力について、「自然を凝集し、象徴しているところだ」と述べる栗田氏は、さらにいう。 「盆栽は、小さく矮小化することを目的としているのではなく、逆にそこには、トータルな天然造化の法側性の美的調和が表されていなければならない。いや、目にみえる盆栽の造形の背後に、長年月にわたる人間の剪定によって刻み出された造型のイデー(理念)が表出されている。とくに長年月を生きてきた盆栽には人間個人の知識をこえて、古代から日本人の心にひそむ、造化の真実がトータルに生きているのである。盆栽は私たちの造化の神に対する信仰告白の記念碑ともいうべきものなのである。」 盆栽を、自然美を表現する日本が創造した世界における唯一の芸術だという栗田氏は、さらに超芸術、超美術と呼ぶべきものだといっている。 私たちに、盆栽と共に生きることの素晴らしさ、生きることのありがたさを悟してくれる。
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